前回(去年)のブログでは、何で私が入院していたのか触れていませんでした。
私は2歳半から小児喘息になり、その後順調(?)に気管支喘息へ移行し、結局大人になっても治らないまま現在に至ります。
喘息は祖父からの隔世遺伝と幼少期に兵庫県の尼崎市に数年暮らしていたことが原因かなと思っています。
1960年代から尼崎は工場の煙による大気汚染が激しくなり、1970年代(私が生まれた時代)は阪神高速道路や国道43号からの排ガスが加わり、汚染は悪化していきました。
この時期に喘息患者が増えたという実情もあります。
そんなこともあり、記憶を遡って見ても「健康」だった記憶は一度もありません。
とはいえトータルで言えば、元気な時と発作が出てる時は半々かな。
小学生の時は平日は学校帰りに病院へ行って、定期的に診察してもらい、週末は発作が出ることが多く、救急で病院→そのまま入院したりしていました。いっ時は入院していた病院から通学していました。
中学生をピークに少しづつ落ち着いてきましたが、病院通いは変わらず。
高校、大学となってからは一人暮らしもできるほどになりました。大人になって、喘息をコントロールするということを覚えたので。
それまでは元気と思えば、アホなので後先考えずに走って息絶えて、倒れるみたいな生き方(笑)
余談だけど、大学に入って半年で8kg太って、高校時代の友達に別人と言われたのよね。悲しき思ひ出。
さて、そこから設計事務所に就職した私は、再び体調を崩していくわけです。
全員で5人という事務所で、責任や受け持つボリュームの大小はあれど、一人一棟のマンションを担当することもありました。
大きいマンションになると、または締め切りが近づく案件なんかはスタッフ総出で休日返上でやります。
暇な時はちょー暇だったけど、忙しいと月400時間超えの業務でした。
先輩は事務所に寝泊まりし、私は一応帰らせてもらってましたが、始発で行って終電で帰るという。
むしろ家に帰る方が睡眠時間少なくなるんだけど、それでも事務所に泊まりたくなくて(事務所は法的には居室と認められない空間だったのでね...色々と長時間いづらい)
そして、3年勤務した中でプチ入院をしたことがきっかけで、大きな迷惑を事務所にかけてしまい、それをきっかけに私は退所しました。
その後、知り合いの事務所にバイトしにいったり、一級建築士の資格を取るために1年間学校に通い勉強だけしてました。
晴れて3回目の受験で合格し、やったー!(号泣)と思った矢先に、気が向けたのかインフルエンザにかかり、喘息発作からのまた入院...
それが前回のブログに出てきた入院です。
ちなみにこの時も救急外来から入院し、血中酸素濃度を看護師さんが測ってくれた時「83」という数値。
先生が「え?」もう一回測って、といって測ってもらったけど確か同じような数値だったような。
点滴と筋肉注射で(発作を抑えるため)朦朧としてたけど、覚えてます。
今朝、コロナに罹患した(と思われる)男性の記事を読みましたが、医者から「血中酸素濃度が90台前半だったらすぐに病院へ行った方がいい。80台だと相当危ない」と言われたそうです。
入院中に読んだ本には83ってがんの末期患者と同じくらいと書いてありました。
そんな経緯で約2週間弱入院しする事になるのですが、そこで運命的な出会いが!
そう、あれは2004年の2月に事でした(懐かしすぎるー)